投薬だけでは完治できない「僧帽弁閉鎖不全症」は手術で治す

 人間では「手術」が当たり前の治療法 

 ここまでお読みいただき、「僧帽弁閉鎖不全症」がどのような病気で、検査や診断がどのように行われるかおわかりいただけたと思います。
ここからは実際の治療について、より詳しく説明していきます。
 
まず、わかっていただきたいことが「僧帽弁閉鎖不全症」は完治する可能性が高い病気だということです。確かに心臓はからだの中でもっとも重要な臓器のひとつですし、ましてや小さな動物の心臓です。簡単に治療ができるわけではありません。
 
しかし、かつての内科的治療しか選択できなかった時代と違い、今は治療法を選べる環境が整い始めています。少し前までは、獣医師でさえ犬の「僧帽弁閉鎖不全症」は、投薬で症状を緩和させることと病気の進行を遅らせることが唯一の治療方法だと信じていました。
なぜなら、手術は困難だと考えられていたからです。
 
ここで、人間の「僧帽弁閉鎖不全症」の治療について少しお話しさせてください。
 
人間にも「僧帽弁閉鎖不全症」は起こる病気です。僧帽弁がもろくなり血液の逆流が起きてしまうという病気の仕組みは、人も犬もまったく同じです。原因の多くは加齢だといわれています。
 
人間の場合、他の難しい疾患を併発している場合や、高齢で体力的に難しい場合を除き、手術が標準的な治療になります。患者さんの弁をそのまま使う弁膜修復術と、人工の弁に取り替える人工弁置換術の2種類が主な手術方法です。
 
修復手術は患者さんの弁を使うため、拒絶反応もなくスムーズに術後も過ごせるというメリットがあります。しかし、手術の完成度や弁の状態によって、まれに再発してしまい再手術を行わなければならないことがあります。
 
人工弁置換術は、患者さんの弁のかわりに、チタンなどの人工的な素材でつくられた機械弁や、牛の心膜や豚の大動脈でつくられた生体弁を使用します。からだにとっては異物が体内に混入したことになるため、拒絶反応に対するケアが重要になります。
 
機械弁は血のかたまりができやすくなるという欠点をもっているため、血液をサラサラにする薬を継続して服用する必要があります。ワーファリンという薬名を聞いたことのある方は多いと思います。ワーファリンを服用していると、血液が凝固しにくくなります。ですので、ケガや歯科治療などで出血した場合や、別の手術をすることになった際は危険がともなうので注意が必要です。ただし、機械弁はとても質のいい素材でつくられているため、一度取り替えてしまえば一生ものになるという利点があります。
 
生体弁は内服薬を続けなくても、健康な時とかわらない生活を送ることができるようになることが多いようです。ただし、生体弁そのものの寿命は10〜15年だといわれており、弁が劣化すると再手術が必要になります。
 
患者さんの年齢、体力、弁の状態を総合的に判断して術式や弁の種類が選択されることになります。
 
人間の「僧帽弁閉鎖不全症」の手術は比較的単純で危険性が少ないといわれています。少し古いデータで恐縮ですが、日本胸部外科学会の調査では、2008年の「僧帽弁閉鎖不全症」手術症例が4406件。そのうち術後30日の生存率は98・3%という結果です。ほとんどの患者さんが手術がうまくいき、命も助かっているといっていいでしょう。
 
補足でひとつデータを紹介しておくと、先ほどお伝えした98・3%は日本国内の30日後生存率ですが、アメリカで同じ調査を行ったところ、同年で96・4%だったという報告があります。手術に踏み切る年齢や病状に差があるのかもしれませんが、わずかながら日本の生存率が上回っているのは、手術に関して日本の医師の技術レベルが高いと素直に受け取ってもいいと思います。

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犬の「僧帽弁閉鎖不全症」で手術が難しかった理由とは

 少し話がそれてしまいましたが、不思議に思いませんか? 人間ではほとんどの方が手術を受け、生存率も高い。心臓の仕組みも、病気の状態も同じなのに、なぜ、犬では手術ができなかったのでしょうか。
 
犬における心臓手術は海外で先行して試行錯誤されてきました。最初は人間に近い大きさのセントバーナード、次に25〜45㎏くらいの犬。成功と失敗を繰り返しながら、人工心肺を使い、当初は生体弁での置換手術中心に行われていました。そのほとんどは大型犬が対象でした。1998年頃から、置換手術にかわって僧帽弁を修復する手術が試されるようになりましたが、なかなか安定した成績をおさめることができない時期が続きました。
 
日本国内でも優秀な獣医師の先生数名が、さまざまな方法でアプローチをし、開心術の礎を築いてくれました。置換術が試された時期もありましたが、人工弁には犬のサイズに合ったものが存在しません。人間用の人工弁を使用すると、大きすぎてうまくいかないのです。とはいえ、個体差の大きい犬のためにサイズを取りそろえて人工弁をつくることはコスト的に厳しいという事情もありました。
 
そのために人工心肺を使い、形成術で行う「僧帽弁閉鎖不全症」の手術症例が多くなってきました。しかし小さな心臓を止め、機械の力を借りて、循環をサポートする技術は、とてもレベルの高いものです。弁の大きさも小型犬であれば、人の指の腹程度です。その弁を修復して、何本も糸を通すわけですから、5㎏以上体重がなければ手術は困難であるというのが世界的な見解でした。
 
おわかりいただけたでしょうか。犬の心臓の大きさと、人間の心臓の大きさの違いが、犬での「僧帽弁閉鎖不全症」の手術が定着しなかった大きな理由だったのです。
 
1章でお話しした通り、「僧帽弁閉鎖不全症」にかかりやすいのは小型犬です。特に日本では近年、トイ種と呼ばれるさらに小さいカテゴリーが人気になっていることから、小さな犬種、小さな個体でも手術が求められるようになり、手術の難度は上がる一方です。

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手術を成功に導く「チーム医療」の完成へ

ちょうどその頃、私はアメリカのハーバード大学での留学を終え、日本に帰国したところでした。北里大学獣医畜産学部附属動物病院に所属すると、たままた循環器のポストに空きが出ました。アメリカで循環器を徹底的に学んできた私は「やってみたい」と手を挙げました。ここから私と「僧帽弁閉鎖不全症」手術の蜜月が始まったのです。
 
動物病院で診察をしながら、そこで出会った「僧帽弁閉鎖不全症」の小さな犬たちを手術するようになりました。大学病院では手術室を確保するのが大変でしたが、その分、いかに手術を早く進めるか、最大限に知恵を絞りました。手術の準備から、執刀、手術室の片付け、術後の管理。そういった手術の一連の流れを、スピーディーにしかも正確に行うことは、実は犬のからだへの負担を減らす意味でもよい結果をもたらしていたようです。
 
いくつもの症例を手術する中で「僧帽弁閉鎖不全症」の手術には、チーム医療が欠かせないということに気づきました。手術を滞りなく進めるためには、ひとつの手術で執刀医を含め最低5名、できれば8名のスタッフが必要でした。助手1名、器具助手1名、麻酔担当医1名、人工心肺のポンプ管理1名、記録係1名、外回り看護師2名、そして執刀医。これだけのメンバーが揃っていることが理想です。
 
小さな動物の心臓を止めてメスを入れるわけですから、徹底した管理が必要になります。ひとつでも機器の操作を誤ったり、データを読み間違えたり、器具の準備が遅れたりしたら、それだけで手術の成績に影響が出てしまいます。特に人工心肺の技術は、止めた心臓が再び動いてくれるかどうか、そこがとても難しい部分になります。進行する手術の中で、血圧、出血量、体温など、さまざまなバイタルサインをモニタリングしながら、機器を的確に調整する管理能力が大切です。
 
もちろんチーム内の人間関係も良好でなければいけません。全員が全員を尊敬し、わからないことは教え合い、情報をお互いに公開して見識を広める。手術をさらに良いものにしていくためには、そういうチームづくりが不可欠だと考えました。
 
その後、日本大学生物資源科学部獣医学科に移籍した私は、同僚や後輩に声をかけ、新たなチームをつくりました。「僧帽弁閉鎖不全症」の手術に対して、真摯に取り組む意識を持っているメンバーが集まりました。手術に明け暮れ、技術とチームワークに磨きをかけたお陰で、手術後の犬たちが元気に回復する割合がどんどん増えていきました。
 
この時に出会ったメンバーの多くが、今のセンターでも一緒に働いてくれています。さまざまな症例やアクシデントを一緒に乗り切ってきただけに、いまではとてもスムーズに手術が進行します。私自身、チームスタッフにどれだけ助けられたかわかりません。彼らの動き一つひとつ、手術に対する知識と勘、動物への愛情ある接し方は、一朝一夕で身につくものではありませんし、簡単に代わりの人を、というわけにはいきません。このチームであったからこそ、不可能だといわれていた小型犬への手術を完成させることができたのです。
 
こうして手術を続けていく中で、私たちは1.3 ㎏のチワワの手術を行い、元気に回復させることができました。当時、このことを発表した時には、獣医師、人間のドクターを含め、開心術にかかわったこともあるたくさんの方々から驚愕と賞賛のお言葉をいただきました。
 
小さな心臓を止めて手術を行うこと、小さな弁を修復し回復させることが至難の業だということが、このことからもおわかりいただけるでしょう。
 
私のセンターでは、今も月に10〜12例の「僧帽弁閉鎖不全症」を含む開心術を行い、たくさんの小さな命が救われています。

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投薬治療では半年後の生存率が50

 手術成績が向上したといっても、現在「僧帽弁閉鎖不全症」の手術を積極的に行っている獣医師は、全国レベルでみてもそう多くはいないはずです。不足ない設備とスタッフを揃え、手術中に多々あるハードルを正確に乗り越えることのできる獣医師は、日本国内では私の知る限り片手の指で余るほどだと思います。
 
ですから、実際には投薬治療のみで対処されているケースがほとんどでしょう。みなさんの中にも、愛犬が「僧帽弁閉鎖不全症」の投薬治療を続けているという方もいらっしゃるのではないでしょうか。
 
もちろん、手術ができないケースもあります。てんかんなど、他の重篤な病気を併発している場合や、体力的に麻酔や人工心肺を使用することが難しい時には投薬と定期検診でみていくしかありません。
 
「僧帽弁閉鎖不全症」の症状が出て投薬治療を開始した場合、半年後の生存率が約50%だという統計が出ています。
 
すでに高齢で、本来の寿命近くまで生きてからの半年は、犬にとって十分な月日だといえるかもしれません。しかし若くして発症した場合の半年は、飼い主にとっても犬にとっても短すぎるのではないでしょうか。
 
しかも投薬治療は対症療法になりますので、「僧帽弁閉鎖不全症」がある程度進行してしまっていたら、苦しそうな咳を完全に止めることや、疲れやすくなっているからだを健康体に戻すことはできません。元気だった時のようにドッグランを駆け回ることは、恐らく一生できないと思っていいでしょう。
 
とはいえ、現在の薬学は非常に優れていますから、素晴らしい薬もたくさんあります。「僧帽弁閉鎖不全症」でよく使用される薬とその効能について、簡単に紹介しておきましょう。

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《エナラプリル、ベナゼプリルなど(アンジオテンシン変換酵素阻害薬、ACE阻害薬)…血管拡張薬》

 心臓が悪くなっていると診断された時に、最初に使用することの多い薬です。血管をゆっくり拡張させて、低血圧のような状態にします。逆流に負けず、がんばって血液を循環させようとしている心臓に対して「もっとがんばれ」と指示を出すホルモンを減らし、心臓の負荷を軽減する効果があります。
商品名:エナカルド、フォルテコール、エースワーカー、アピナック、バソトップなど。

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《ピモベンダン…強心薬》

 ACE阻害薬とは逆に、心臓の動きを盛んにさせるための強心薬です。心臓を収縮させる筋肉に働き、心臓の動きを盛んにさせるための薬です。ACE阻害薬で様子をみていて、さらに悪化してきたと認められた時に使用することで心不全を抑えることができます。一度飲み始めたら、ずっと飲み続けるように指示されることの多い薬です。
商品名:ベトメディン、ピモベハート、アカルディカプセルなど。

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 《アムロジピンなど(カルシウム拮抗薬)…血管拡張薬》

 血管の壁は3層の膜でできています。細胞の中のカルシウム濃度が上昇すると、膜が収縮し、血管全体が細くなってしまいます。血管が細くなれば血圧が上がり、心臓は必死に動いてしまいます。そのために、カルシウムが細胞の中に入ってこないように防御し、結果的に血圧を下げる薬です。
商品名:コニール、アムロジピン、ノルバスクなど。

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 《フロセミド・トラセミド…利尿薬》

 腎臓の過剰な体液を取り除き、尿を出させる働きをします。尿がたくさん出ると、からだの中の血液量が減ります。血液量が減ると、心臓への負担が軽減されます。また、血液がたまりすぎて肺に漏れ出してしまう肺水腫を防ぐ効果もあります。トラセミドはフロセミドの数十倍、利尿効果が強く出ます。
商品名:ラシックス、ルプラックなど。

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 《カルベジロールなど(β遮断薬)…不整脈治療薬》

 不整脈を抑える薬はいろいろなタイプのものが使われます。交感神経を抑えて興奮しないよう自律神経に働きかけるβ遮断薬や、心臓の筋肉が収縮して血管が細くならないように、細胞が興奮するのをコントロールする薬などを使用します。
商品名:アーチストなど。

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投薬治療の指針となるステージ分類 

「僧帽弁閉鎖不全症」の投薬プランは、病態ステージの指針に基づいてすすめられます。このステージ分類は、世界的に優秀な循環器専門の獣医数名が意見を出し合ってまとめ、アメリカ獣医内科学会が発表したものです。
各ステージの症状と特徴、使用すべき薬の種類は以下の通りになります。
 
ステージA
《状態》症状はないが「僧帽弁閉鎖不全症」の好発犬種(日本ではチワワ、シー・ズー、ヨークシャー・テリア、マルチーズなど)については、検診を通して心臓病の有無をチェックする必要がある。
《治療》必要なし。日頃から疾患の早期発見に努める。
 
ステージB1
《状態》心臓に構造的異常(心雑音)があるが、臨床症状は認められない。心拡大はない。
《治療》薬物治療は行わない。日常生活へのアドバイス(体重管理や過度な運動の制限)を行う。3〜6カ月の間隔で検診を実施する。
 
ステージB2
《状態》心臓に構造的異常(心雑音)があるが、臨床症状は認められない。心拡大がある。
《治療》ACE阻害薬を投薬。場合によっては、利尿薬、β遮断薬、強心薬を使ってもよい。
 
ステージC
《状態》心臓に構造的異常(心雑音)があり、心不全にかかったことがある、または現在、心不全がある。
《治療》ACE阻害薬、β遮断薬を使う。必要があれば、利尿薬、不整脈治療薬、強心薬、カルシウム拮抗薬を追加する。
 
ステージD 
《状態》内科的治療で効果があらわれない、難治性心不全を起こす。
《治療》利尿薬、ACE阻害薬、β遮断薬、抗アルドステロン薬、強心薬、血圧を下げる薬などを使用する。
 
このようにステージに合わせて投薬の組み合わせを変えながら、症状の緩和と病状の進行を抑えていきます。
 
薬の使い始めは、飼い主の目にも効果がはっきりと感じられるほど、しっかり効くことが多いようです。しかし副作用がまったくない薬というのはありません。例えば、肝臓や腎臓の検査数値が上がってしまい、それらに対する薬を追加しなければならないこともあります。
状態に合わせて薬を調整していくうちに、1回の服薬が7錠ではおさまらなくなることもあります。薬で体調をコントロールしているわけですから、飲み忘れは許されません。そのプレッシャーは飼い主にとって、とても大きなものになるはずです。
 
また、投薬で順調に過ごしていたのに、ある日突然ガクンと悪くなり、肺水腫や心不全を起こすことがあります。急激な体調の悪化で処置が間に合わず命を落とすケースも少なくありません。
 
しかし心臓にメスを入れる、心臓を一度止めるということは、大きなリスクを覚悟する必要があります。手術と内科的治療のどちらを選ぶかは、最終的には飼い主の決断にゆだねられます。愛犬の年齢や病状、性格などを考慮して、治療方法を選択してください。
ただ、内科的治療を選ぶ場合は、完治を求めるものではないということを理解したうえで、薬でのコントロールを続けるようにしてほしいと思います。

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 手術はどのように行われるのか

 実際に手術はどのように行われるのか、私のセンターで行っている手術についてお話ししましょう。
 
手術は左を向いた横臥位で行います。まず大腿部を切開し、動脈と静脈に血圧測定用のカテーテルを留置します。次に頸部の切開を行います。ここには体外循環用のカニューレを挿入し、部分体外循環を開始します。体外循環中は体温を25〜28℃に維持するようにします。
 
血液を固まりにくくするヘパリンという薬も注入します。そのため、開胸するまでは血管を切らないように慎重に手術をすすめます。出血した場合は、そのつど血管の損傷部を焼いて、出血を止めながら進行します。
 
いよいよ胸部の切開です。心膜を切開したあと、大動脈に心臓保護液を注入するためのカテーテルを挿入します。保護液の注入が始まったら、心臓を停止させます。
 
心臓が停止したら左心房を切開し、僧帽弁の状態と腱索の断裂の有無を確認します。
 
弁のまわりが伸びてしまい、弁が薄く拡大していると血液逆流を起こすので、弁の周りにゴアテックスの糸をかけて縫い縮めていきます。これを僧帽弁輪縮術といいます。
 
弁を支えるための腱索が切れたり伸びたりしている所見も多くみられます。切れているところ、伸びているところ、将来的に切れそうな部分を、ゴアテックスの糸を使い、乳頭筋から僧帽弁の弁先に向かって糸をかけ、縛っていきます。将来的に切れそうな腱索を慎重に判断しなければ、将来再手術になる可能性もあります。
 
この時に腱索の長さをどれくらいにして、どのあたりに縫い付けていくかの判断が難しいところです。
 
私の手術を見学された国内外の先生方から、必ずと言っていいほど受ける質問が、
「どうやって腱索の長さと、縫い付ける場所を決めているのか」
ということです。これに関しては今のところデータで示すには至っていません。将来的には、何らかの指針を言葉やデータで示す必要があるでしょう。ただし今のところは「長年の勘」としかいえません。
 
心停止の時間は約90分。心拍再開後、経食道心臓超音波検査で、僧帽弁の逆流が軽減していることを確認し閉胸します。閉胸後は体位を数回変え、血圧の安定を確認したら大動脈の血圧測定用カテーテルを抜きます。
 
自発呼吸の再開が確認できたら覚醒させて酸素室へ移動させます。
 
ここまでが私のセンターで行っている「僧帽弁閉鎖不全症」の手術の流れです。閉胸後「逆流の軽減を確認する」とあり、少し不安を覚えた方がいらっしゃるかもしれません。
 
実は僧帽弁の修復術では、ピタッと逆流を止められないケースもあります。1/4程度の頻度で逆流が残ります。しかし術後経過を観察していくと、超音波検査では逆流が少量認められるものの、レントゲンでは拡大していた心臓が小さくなっていることを確認できます。つまり、わずかな逆流であれば、日常生活に支障はなく、心臓の機能的にも問題はないと判断できます。

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 術後生存率99%を誇る手術成績

 手術というと、どうしても成功率が気になると思います。 
 
外科医であれば誰もが感じていることですが「成功率」というのは何をもって「成功」というのでしょうか。もし、手術終了直後の生存を「成功」と呼ぶのであれば、私のセンターでは99%です。100例に1例くらい、人工心肺から自発呼吸に戻れないケースがあります。その理由を解析したところ、手術時間が長くなるほど、生還できないという結果が出ました。
 
手術が長引くケースというのは、先に紹介したステージDに近い状態の時です。投薬では症状を改善することができず、肺水腫や心不全を起こしても、すでに内科的治療では手の施しようがない状態です。ひどい時は酸素室に入ったまま、私のセンターに連れてこられたステージDの犬もいます。
 
手術を行う場合は、飼い主と腹を割ってお話をして、私にできうる限りのことと、リスクが高い手術であることを理解いただいたうえでお受けするようにしています。
 
できればステージCで手術を決断すべきだと思います。本来「僧帽弁閉鎖不全症」はゆっくり進行する病気なのですが、時に飼い主が手術をどうしようと迷っている間に、普通より早くステージDに移行してしまう犬もみています。
 
「成功率」に話を戻しましょう。「成功率」というのは、言葉として誤解を招きやすいので、ここでは「成績」とさせていただきます。
 
手術直後は99%の生存であったわけですが、そこから退院までには約1週間を要します。そこまでの生存率でいうと約9割になります。全体の5%が合併症によって亡くなります。残りは他の持病との兼ね合いや、体力の限界などさまざまです。退院まで問題なく過ごせて、あとは術後1カ月の過ごし方を誤らなければ、「僧帽弁閉鎖不全症」が原因で命を落とす危険はないと思っていいでしょう。
 
私のセンターで手術した飼い主全員を調査したわけではありませんが、報告のあった飼い主のお話を総合的に判断すると、他の病気を発症しなければ、手術を行った犬たちは寿命を全うしているのではないかと感じています。それだけ「僧帽弁閉鎖不全症」は、弁を修復することで健康なからだを取り戻すことができる、完治の可能性の高い病気なのです。
手術を迷われている方にとっての成功率とは
 
これらのデータはあくまで今までの経験による結果です。
 
手術に悩む飼い主へ「成績」「成功率」についてお話しする時は、以下のようにお伝えするようにしています。
 
「この子にとって手術は未来のことです。ですから過去のデータがどうであれ、この子にとって手術後元気になるかどうかは五分五分です。ただ、我々のチームは、手術をすれば9割の子を元気にする実績をもっています」
 
この伝え方が100%正解ではないとは思います。しかしメスを入れ、心臓を止めて行う手術です。どんなアクシデントがあるかは手術をしてみなければわからないというのが本当のところです。
 
それでも、手術中にあるいくつもの関門を乗り越えることにおいて、我々のチームであれば限りなく高い可能性をもっているということをお伝えしたいと考えています。

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合併症についての正しい理解が必要

 合併症で亡くなる可能性は5%程度だと述べました。
手術を決断されるにあたって、重要なポイントになると思いますのでお話ししておきましょう。まず、10歳以下の症例では、ほとんど合併症はみられません。対照的に10歳を超えると、手術前から他にも体の異常を示す犬が多くなるため、合併症も起こりやすくなると考えられます。
 
私が今までに経験した、命を落とすことになった主な合併症は「血栓塞栓症」「脳梗塞」「膵炎」の3つです。
 
血栓とは血のかたまりのことで、「血栓塞栓症」とは血栓によって血管が突然塞がれしまう状態をいいます。どの場所の血管がつまるかによって、脳梗塞、心筋梗塞、肺塞栓、深部静脈血栓症など名称がかわります。私の経験では、脳梗塞と四肢末端に血栓が飛ぶケースが多くありました。
 
脳梗塞は人間の場合と同じで、脳の血管がつまり、それにともなってからだの一部が動かせなくなったり、機能低下を起こしたりします。
 
四肢末端に血栓ができるのは、エコノミークラス症候群をイメージしていただくといいでしょう。人間であれば肺の血管が血栓で塞がってしまい、最悪の場合死に至ります。犬の場合も同様に、処置が遅れて四肢切断や亡くなるケースもあります。
 
また、小さな血栓が原因で膵炎を起こすこともあります。膵炎は突然の嘔吐が特徴的な症状です。
 
これらの血栓は本来、投薬で治療するのですが、手術直後には使用が難しい薬になります。合併症のことを鑑みると、術後は内科的管理が大変重要になります。つまり「僧帽弁閉鎖不全症」の手術を行う環境としては、外科に特化した獣医師だけでなく、薬のチョイスや術後管理を任せることのできる内科の総合的スペシャリストも必要になるということです。

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それでもなお、手術が普及しない理由

 術後生存率99%。この成績があっても、まだまだ「僧帽弁閉鎖不全症」の手術はポピュラーではありません。
 
その大きな理由は手術の難しさにあります。術中にはいくつものチェックポイントがあり、それらを慎重に乗り越える必要があります。
 
例えば、開胸してみたら弁が水餃子の皮のように薄くぺらぺらになっていて、触るだけで切れてしまいそうなほどもろくなっていることがあります。ここで「無理だ」と判断したら手術は進みません。このケースでは、あの術式を使おう、この器具を使おうといった、臨機応変に対応できる経験と手術勘のようなものが大切になります。
 
また、小型犬の場合、弁の大きさは赤ちゃんの爪くらいの大きさしかありません。そこに何本も糸をかけて結ぶには熟練の技が必要になります。
 
手術そのものに加えて、術前の検査や管理、術後の観察と管理も高いスキルが要求されます。当然24時間の監視が必要ですし、設備も最新のものを揃える必要があります。優秀なスタッフを24時間回転させることができるかどうかも重要になります。
 
「僧帽弁閉鎖不全症」の手術にチャレンジされている動物病院も少しずつですが増えてきました。いくつものチェックポイントをうまく通過できて、術後の管理をしっかりされれば「成績」としては良好でしょう。問題は、その「成績」を毎回出せるかということです。僧帽弁そのものの状態も、心臓の肥大や肺の状況も、手術を行う個体によってまったくといえるほど違います。さまざまな病態、症例に対して、同じような「成績」を残せることが、手術を続けていく者の目指すところではないでしょうか。

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日本の動物医療の仕組みそのものにも問題点がある 

 手術が広まらない理由は、動物病院のあり方にも問題があるのではないかと、私は感じています。
 
人間の手術を考えてみてください。町の内科や小児科で手術をすることはほとんどありません。検査も、町の医院では簡易なものしかできないケースが多いでしょう。ですから大きな病気の可能性があれば、二次診療施設を紹介されることになります。心臓手術ともなれば、設備が整った病院でなければなりません。逆に、軽い症状の人がいきなり大きな病院を受診することは、基本的にできないシステムになっています。
 
ですから、町のお医者さんが「この人は心臓病だけれど、うちの病院では手術ができない。内科的治療だけでがんばってもらおう」などと考えることは、常識的にあり得ません。
 
しかし、動物病院の場合は、獣医師が本気でその動物を治したいと思っていて、飼い主の要望に応えて自身のできる範囲で最善を尽くそうと考えてしまうことがあるのです。動物の二次診療施設が確立していないことも、その原因と考えられます。
 
残念なことですが、これは病院のすみわけが確立できていないから起きてしまう袋小路のようなものなのです。
 
人間の病院は「○○内科」「△△泌尿器科」など、診療科目をうたった医院がほとんどです。しかし動物病院では、獣医師が専門的に診療科目を習得するシステムが立ち上げられて間もないため、専門家が少ないのです。これからは、学会や海外の研修システムで専門分野を学んだ獣医師が増えてくるものと思います。
 
欧米では専門教育制度が充実しています。専門医を育てるためのプログラムがいくつもあり、有名な先生のもとには世界中から獣医師が集まり、専門知識を学んでいます。日本人の獣医師でも、近年こうした専門教育を受ける方が少なくありません。
 
帰国後、そうした獣医師の一部は大学病院に所属し、専門分野を学生に教えながら臨床を行っています。しかしほとんどの方は、一般的な動物病院に所属し、病気と外傷全般をみる環境に戻っていくのが現状です。
 
今の日本で細分化した動物病院をうまく機能させるためには、獣医師の診療技術の広報と動物のカルテ情報の開示が求められます。
 
痛みや苦しみを言葉で訴えられない動物を、飼い主が病院に連れて行くとしたら、「この症状なら内科よね?」「この病状は神経科かしら?」などと勝手な判断をするしかなく、現実的ではありません。
 
理想の形があるとすれば、まずは近所の動物病院に連れて行き、その動物病院で可能な検査を行ってもらう。ある程度病気のあたりをつけ、詳しい検査や手術が必要だと判断したら、すぐに二次診療施設を紹介してもらう。
 
二次診療施設については、学会や獣医師会が監査を行い、専門と名乗るだけの設備や獣医師のレベルなどが確保できているか、設備は清潔であるか、一次診療の動物病院と適正に連携しているかなどをチェックする機能が必要になるでしょう。
 
人間の病院ではそうしたすみ分けが明文化され、それぞれカテゴリーに合った病床数や医師、看護師の人数、勤務体制などが決められています。その事実が保たれているかを定期的にチェックするシステムも構築されています。
 
動物医療でも、今より明確にシステム化されれば、獣医師も飼い主も二次診療施設を有効に利用することができるようになるはずです。
 
私は心臓手術の専門ですが、他にも整形外科、眼科、皮膚科、消化器科、呼吸器科、内分泌科、脳神経科、泌尿器科、生殖器科、腫瘍科などを専門に勉強し、深い知識と高い技術をもった獣医師は日本にもたくさんいます。また、そうした専門医を育成する環境を獣医大学と国が構築する必要もあります。
 
人間の病院と同じように、国立の大学病院、私立の大学病院、私立の総合病院、私立の専門センターなどが、それぞれ切磋琢磨して、得意な手術や治療を受け持つことができるようになれば、今よりたくさんの動物が高度医療を受けられるようになるのではないでしょうか。
 
町の動物病院から、もっとも適切だと思われる大病院へと連携がスムーズに行われ、二次診療施設と町の動物病院が競うのではなく、お互いに認め合い、助け合うことで、たくさんの動物の命が救われる医療が成熟していくのではないでしょうか。
 
私のところで手術をされた飼い主は、手術後1年間は検診に来ていただきますが、それ以外は元のかかりつけの動物病院へ戻られます。投薬を続ける必要がある場合も、投薬についてはかかりつけの先生と連絡を密にとって、診察も処方も行っていただくようにしています。手術前後も、必ずかかりつけの先生にはご報告をして、安心していただくようにしています。
 
二次診療施設は「そっちでできないなら、こっちへよこしなさい」というような、横柄な思考ではつとまりません。赤ちゃんの時からその犬をみてきたかかりつけの先生からいただく情報は、手術をする側にとっても貴重なものが多くあります。事前に過去の病歴を詳しく伺えたら、手術中に注意すべきことを理解できますし、それに備えた準備をすることもできます。
 
私の理想は、かかりつけの動物病院と、二次診療施設がフランクに話し合えて、情報を共有できる環境ができあがることです。これさえ叶えられれば、全国どこの動物病院とでもコラボレーションして、小さな命を今まで以上に救うことができるようになるはずです。

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紹介〜診断〜手術〜退院までの流れ

《紹介》
私の所属するセンターは完全な二次診療施設です。ですから、飼い主が直接「手術をしてほしい」とお申し出くださっても、そのまま受け入れることはできません。まずは、かかりつけの動物病院でよく相談をしてください。そのうえで、当センターをかかりつけの先生が紹介してくださればそれが理想です。
 
もし、かかりつけの先生から「手術は困難」「手術不要」と言われても、どうしても二次診療を受けたいという希望があれば、ぜひその本音をかかりつけの先生にお話ししてみてください。
 
手術をするかしないかは、当センターで診察をしてから決断していただいても構いません。検査の結果、手術より内科的治療を継続した方がよいケースもあります。まずは高度な検査で、ご自身の愛犬の病状をしっかり把握したいという思いを伝えてください。
 
確かに動物病院の先生の中には「僧帽弁閉鎖不全症」の手術に否定的な考えをおもちの方もいらっしゃいます。でも、動物の命を助けたいという思いは、獣医師であればみな共通したもののはず。飼い主の正直な気持ちを伝えれば、きっと二次診療に納得してくださるでしょう。
 
飼い主として忘れてはならないのは、かかりつけの先生への感謝の気持ちです。今まで丁寧に愛犬をみてくださっていることにお礼を述べるとともに、手術後、元気になったら再び診察していただけるようにお願いをすることも必要です。かかりつけの先生あっての二次診療だということを、飼い主も忘れないでください。
 
《診療日の予約》
最初の連絡は必ずかかりつけの動物病院からとお願いしています。動物病院の先生から症例の概要を伺って、診察日の予約をさせていただきます。ですから、かかりつけの動物病院の先生に相談をした際、希望の診察日時の候補を伝えていただけるとありがたいです。
現時点では水曜から土曜の9時30分〜11時30分が診療時間になっています。場合によっては予約が埋まっていることもあります。
 
《診察》
私の監修のもと、循環器を専門に診察する獣医師が診察を行います。
 
身体検査、血圧測定、心電図検査、血液検査、心筋バイオマーカー測定、レントゲン検査、心臓超音波検査、血液ガス分析などを行い、心臓と全身の状態をみます。場合によってはホルター心電図検査を実施することもあります。
 
《かかりつけの先生と情報共有》
診療1回ごとに、かかりつけの動物病院に結果をご報告させていただきます。お電話をさせていただくとともに、レポートという形で記録に残る報告をいたします。その後の治療方針についても、かかりつけの先生のご意見を伺いながら決めていきます。
 
《投薬治療を行うことになったら》
もし、手術を実施するにはリスクが高いと判断した場合や、検査結果や飼い主のご意向で投薬治療を選択した場合、重篤な状態であれば当センターで治療や投薬を行うこともありますが、基本的にはかかりつけの動物病院に引き継ぎをさせていただきます。
 
その後も、かかりつけの動物病院と情報を共有しながら、必要があれば治療について話し合いやアドバイスをさせていただきます。
 
《手術をすることになったら》
手術日が決まったら、なるべく普通に過ごさせてあげてください。調子が悪くても、ネガティブな言葉かけは禁物ですし、極端に静かな環境にする必要はありません。特別なフードなどはあげないようにします。普段と同じように過ごして、いつも通りの朝を迎えて、センターまでお越しください。
 
《手術当日》
飼い主は待合室でお待ちいただいても、病院を離れていただいても構いません。ただし、連絡はとれるようにしておいていただきます。
 
術前の処置から、手術が終わり、麻酔から覚めるまでが約5時間です。目覚めて点滴などの処置が終われば、会っていただくことができます。麻酔でボーッとしているので驚かれる飼い主もいらっしゃいますが、飼い主の笑顔が愛犬にとって、何よりのご褒美です。ぜひ、優しい言葉をかけてあげてください。
 
ICUに入り、様子をみながら回復を待ちます。
 
《手術翌日以降》
調子が良ければ翌日から食事をとることができます。また面会も自由です。応接室をご自由に使っていただき、愛犬とご家族だけで過ごすことができます。中には、一緒に寝てしまう飼い主もいるほどです。
 
飼い主の中には、面会すると帰る時に寂しがってかわいそうだと考える方もいらっしゃいますが、ぜひ会ってあげてください。飼い主の笑顔と明るい声が、犬のからだにもいい影響を与えてくれています。
 
《退院》
年齢や病状にもよりますが、5〜7日で退院になります。退院する頃には見違えるほど元気になるケースが多く、食事も普通にとれるようになります。
 
《料金》
ご存じの通り、動物医療には国の保険制度が適用されませんので、この料金がそのまま飼い主のご負担になります。ただし民間の保険に加入されている場合は、保険会社との契約条件に応じて還付などがある場合があります。
 
最初の検査……7万円
手術費用………140万円
入院費……………1週間で約30万円
定期検診…………1回6万円×4回=24万円
 
通常、かかる費用は以上です。
 
この額を高いと思うか安いと思うかは、飼い主の価値観によるところが大きいのですが、冷静に計算をしてみると、投薬治療だけを行った場合もそれ相応の金額がかかってしまうのも事実のようです。詳しくは4章で解説します。


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