第5章、病院選びと手術のタイミング
早期の手術で愛犬の健康を取り戻す
安心して治療を受けるための医療機関の選び方
愛犬が心臓病だと診断された時、ほとんどの飼い主はパニックになります。普段の愛犬の様子から「もしかして心臓が悪い?」と予想していたとしても、獣医師からはっきり診断されることはショックに違いありません。
この時に獣医師がどんな話し方をするか、どのような説明をするかで、飼い主の心は大きくふたつの道にわかれてしまいます。
ひとつは、「治りません。薬で少しでも長く生きられるようにしましょう」と言われるか、もうひとつは、「治せる可能性があります。まずはお薬で対処していきましょう」と言われるかです。
もちろんこのままの言葉で言われるわけではありませんが、似たような言い回しをされることが多いと思います。どちらも投薬治療を行うという結論なのですが、「治りません」と言われた飼い主は、そのフレーズだけを頭の中でリフレインしてしまうものです。
一方、「治せる可能性はあります」と言われた方は、希望をもって「僧帽弁閉鎖不全症」という病気に向き合うことができるのです。
このふたつの差はとても大きいと私は思っています。前者の場合、亡くなるのを覚悟した延命治療しか考えられなくなります。でも後者であれば、どうすれば治してあげられるか、前向きに検討する力がわくはずなのです。
心臓病の治療は、とても高度な医療になります。血液を全身に送るという、からだにとってもっとも大切な役割のひとつを担っているわけですから、慎重に治療しなければ他の臓器にも影響が出てしまいます。
ウイルスや細菌を退治するように、薬を飲めば悪い部分を改善できるのであればいいのですが、心臓弁の病気は機能そのものの不具合が原因になっています。ですから外科的処置で、機能不全になっている部分を修復するしか症状を治す方法は本来ありません。
それを「内科治療だけでは」という部分を省略して「治りません」と飼い主に伝えることは、若干不親切であると私は思います。
自分が手術を行っている外科医だから申し上げているのではありません。医師はすべての可能性を患者さんとそのご家族に伝える義務があると思うからです。例えば人間の心臓病の中では「拡張型心筋症」は心臓移植以外では助からないケースがあります。その時に医師は、「助かりません」という言い方はしないはずです。「心臓移植以外助ける方法はありません」と、助ける道があることを示唆した言い方をするはずなのです。
私のところにいらっしゃる飼い主の中にも、「治りません」と言われてしばらく泣いて暮らしたという方がいらっしゃいました。
どんな治療法を選ぶかは、飼い主が最終的に決めることです。投薬治療を選ぶことがベストな選択肢になることも多々あります。だからこそ、診断がついた段階で「治りません」と断言してしまうのは、飼い主を欺き苦しめることにしかならないと思うのです。
「僧帽弁閉鎖不全症」と診断された時には、「治りません」とおっしゃる先生のところではなく、「治す方法はあります」とおっしゃる先生のところで治療をしていただきたいと思います。
投薬治療のノウハウがしっかりしているかを見極める
「僧帽弁閉鎖不全症」の投薬治療が開始されると、初期段階では血管拡張薬という、血液の巡りをよくして心臓の負担を軽くする薬を使用します。
僧帽弁という心臓の部品が壊れかけている状態だからこそ、これ以上心臓に負担をかけないために薬を飲むのです。それにもかかわらず、激しい運動をすれば心臓はたくさん酸素を全身に送ろうと、一生懸命働こうとしてしまいます。この時に心拍数が増えるほど僧帽弁の負担が増し、血圧が上がれば僧帽弁を支える腱索に負担がかかります。腱索が伸びたり切れたりすることで血液の逆流量が増えてしまい、肺水腫になって呼吸困難を起こす。こういう悪い流れになってしまうのです。
投薬を行うということは、からだに何らかの変化を与えることになります。その変化を飼い主にきちんと説明をする必要があるはずです。薬を処方された時には、その薬がどんな風にからだに作用するのか、そのために気をつけることは何なのか、飼い主も積極的に質問されることをおすすめします。
手術を受けたい方のための病院探しのポイント
日本で小型犬に対する「僧帽弁閉鎖不全症」の手術を高いレベルで行える医師は、現時点では限られた人数になると思います。先にも述べましたが、私の知る限りでは片手の指に余るくらいではないでしょうか。
そうした現状の中、手術を決断されて病院を探されている方もいらっしゃるかもしれません。もちろん、私のセンターにお越しいただくのがいちばんですが、距離の問題で難しい方もいらっしゃるでしょう。
犬の心臓病手術については、一般的な文献もほとんどありませんし、なかなか情報が広がっていないようです。私のところにいらっしゃる飼い主も、ほとんどの方が、インターネットで「僧帽弁閉鎖不全症」を検索して病気の知識を得たとおっしゃっています。
病院選びも同じようにインターネットで探される方が多いと聞きます。しかし動物病院に限ったことでなく、ホームページ上には過激な数字が躍っていることがよくあります。「これで○㎏のダイエットに成功!」ですとか「悩んでいたシミがあっという間に消えた!」とか、こうした宣伝文句の中には、若干誇張されたものがあるように感じます。
数字が宣伝材料になっていて気になる場合は、まず電話で問い合わせをしてみるといいと思います。
「僧帽弁閉鎖不全症」の手術について、ここ数年の症例数と、手術をした犬が今どうなっているのかなど、具体的な成績を伺ってみることをおすすめします。その際に、どのような犬種の症例が多いのか、術後の管理はどのように行うのかなどもあわせて聞いておくといいでしょう。そこで納得できれば、実際に足を運んでも価値があると思います。
また、これはかかりつけ医を選ぶ時も同じなのですが、設備の充実度は大事な要素ですし、獣医師の人柄も重視するべきです。獣医師が専門分野についてどのような見識をもっているかという考え方と、動物に対する思いの部分をホームページに公開してあれば、それを病院選びの指針にしてよいのではないでしょうか。
手術のタイミングを逃さないために
手術を行うには「僧帽弁閉鎖不全症」のステージでCの段階が望ましいというお話をしてきました。ステージDになると、術中に厳しいアクシデントが起こる可能性が高まるからです。そうはいっても、飼い主からすれば、できれば手術は避けたいというのが本音です。心臓を止めて行う手術ですから、もし心臓の鼓動が戻らなかったら、自発呼吸が再開できなかったら、そう思うとなるべくギリギリまで手術を延ばしたいと考えるのは責められることではありません。
ただ、ここで愛犬の臓器のことを考えてほしいのです。
手術をしないということは、投薬が続いているということです。ステージCの段階まできているとすれば、心不全を起こしたことがあるはずですから、当然、利尿薬が使われているでしょう。利尿薬は少量で使っているうちは副作用などの問題はほとんどありません。しかし肺がうっ血し咳が増えてくると、再び心不全を起こす可能性が高まるため、利尿薬の量を増やす必要がでてきます。
利尿薬はおしっこを出させるための薬です。泌尿器に強くない先生は、ここで利尿薬の投与量をどんどん増やしてしまう傾向があります。そうすると、おしっこが出過ぎてしまい喉がカラカラに乾いてしまいます。水をたくさん飲みますが、利尿薬の作用でどんどんおしっこが出続けてしまいます。すると脱水症状を起こします。こうなると点滴治療しかありません。
もともとは、利尿薬の量を減らせば点滴の必要はなかったのですが、利尿薬を減らすというのは獣医師としてとても勇気のいることなのです。利尿薬を減らすと、一時的に咳が増えることもあります。それを飼い主から、「薬を減らしたせいですよね!」と責められるのが医師としてもつらいのです。飼い主にとって利尿薬は素早く症状を取り除いてくれる魔法の薬のようにうつることがあり、減らされたことに不満をもたれる方がいらっしゃるのです。無理に利尿薬を増やした結果、今度は腎臓の検査結果が悪く出てしまう。こうした悪い循環が起きてしまうことがとても多いのです。
「僧帽弁閉鎖不全症」が重度になると腎臓病になることが報告されています。利尿薬はそれに拍車をかけます。ですから、腎臓に黄色信号がともる前に心臓手術を決断していただくことが大切になります。
ところで、利尿薬に対するさじ加減はとても難しい判断が求められます。循環器と泌尿器、両方の知識が問われる部分だからです。
私がこの辺りをスムーズに行えていたのは、実は大学生の時の卒業論文が腎臓透析の研究だったからです。本当は最初から心臓について研究したかったのですが、心臓の研究テーマは人気が高く、倍率的に入れそうもないなと諦め、何となくその当時は人気のなかった腎臓病の研究テーマを選んだのです。でも、今となってはその時の選択がおおいに役立っています。私の人生は、この「何となく」という道選びがいくつか繋がり、今に至っているような気がしてなりません。
投薬治療でQOLが下がらないようにするために
QOL(クオリティーオブライフ)という言葉が、近年盛んに使われるようになってきています。病気の治療に関しても、治療はするけれど、生活の質は落とさないようにしたい、そう願う患者さんが大変増えてきています。例えば、入院をせずに通院で治療することにより、趣味を楽しんだり、家族団らんを続けたりすることができるというのも、QOLを維持することになるでしょう。
犬の病気の場合、犬にとってのQOLは飼い主と一緒にハッピーに暮らすことです。しかしいちばんに考えるべきは飼い主のQOLです。なぜなら治療費を払うのも、病院を選ぶのも、病院へ連れて行くのも飼い主だからです。
これまではお仕事をされていたかもしれませんし、愛犬に留守番させて外出されることもあったでしょう。しかしひとたび肺水腫を起こした愛犬は、飼い主の身も心も縛り付けるほど不安にさせます。
一度でも肺水腫を起こした犬をご覧になれば、飼い主のその不安を理解することができるはずです。最初は咳から始まり、徐々に呼吸が速くなっていきます。重症の場合は舌や唇の色が青くなることもあります。横になれず、立っているのもつらく、顎をあげてハァハァと、まるでプールの中で溺れているかのようにもがき苦しみます。
また喀血することもあります。咳き込んだ時に血液がパッと飛び散り、飼い主は恐怖を感じるほどです。飼い主の頭には、その時の光景が何度もフラッシュバックで蘇るそうです。
こうした肺水腫の経験から、飼い主はどんどん内向的になっていきます。考えるのは愛犬に肺水腫を起こさせないことだけ。だから大きな声や音を出さず、愛犬をビクッとさせないよう、静かに静かに暮らすようになるのです。中にはお仕事をやめてしまう方や、長期の休暇をとる方もいらっしゃいます。
人間であれば、調子が悪ければ入院をすることが簡単です。もちろん、犬の入院もたいていの動物病院が受け入れているはずです。しかしなぜ愛犬が、飼い主と離ればなれになり、狭い入院用のケージに入れられなければならないのか理解ができません。犬はきっと寂しくて鳴くでしょう。その声に飼い主も耐えられないのが現実です。
そのため、犬の場合、酸素室や点滴で管理が必要な場合を除き、たいていは帰宅して様子をみてもらいます。こうなると、やはり飼い主は愛犬を思う気持ちから、ご自身の普段の生活のうち、かなりの部分を諦めなくてはいけなくなります。
そのうえ、薬を飲ませ忘れてはいけない、飲まずに吐いてしまったどうしよう、食事をしないから薬を飲ませられないなど、投薬に関するプレッシャーも相当に大きいようです。こうしたさまざまなことから、肺水腫の恐怖に怯えてビクビクしながら生活する飼い主のQOLは、確実に下がっているはずなのです。
この肺水腫との精神的な闘いからは、手術をする以外抜け出すことはできません。しかし、手術をしないと決めたのなら、苦しいですがビクビクし続ける生活から脱出しなければいけません。
肺水腫が起きた時に、すぐに連絡できる救急センターの電話番号を控え、愛犬を連れて外出する時には携帯用の酸素缶を持って行きましょう。自宅には酸素室をレンタルして備えておくと安心です。
薬を飲めなかった時には、かかりつけ医に相談をして注射などで対処する必要があるかを確認してください。そして家族や親戚、動物好きの友人の力を借りて、飼い主も息抜きをしてください。
息抜きなんて、愛犬を裏切るようでできないなどと考えてはいけません。飼い主がリフレッシュして少しでも肩の力を抜いてくれた方が、愛犬のストレスも減るのです。ストレスが減るとからだそのものがリラックスして体調にもいい影響をもたらします。
上手に息抜きをして、まずは飼い主自身の、心とからだの力を抜くことを心がけてください。
トイ化された小型犬の歯周病と心臓病
私のセンターでは、最小1・3㎏のチワワの「僧帽弁閉鎖不全症」手術を行ったことがあります。術後も問題なく、とても元気になりました。20年くらい前までは5㎏以下の小型犬には、心臓の手術はできないと言われていたことを思うと、助けられる命の幅が広がり、私自身も自信につながっています。
実際、私のところへくる愛犬も、平均的に小さくなってきています。その背景には、近年、日本の小型犬が、ますますトイ化されているという事実があります。小さな個体と小さな個体を掛け合わせることで、さらに小さな子をつくっているとも聞きます。
確かに小さい犬はかわいらしく、見ていても微笑ましい限りです。
しかし、小さな個体を家族にした段階で、病気やけがについての知識をもってケアしていく必要があります。
心臓に関連してお話しするのであれば、歯の問題が大きく取り上げるべきところです。乳歯から永久歯にはえかわる時に、顎が小さく歯が並びきらないことがあります。そうすると歯並びが悪くなり、歯周病になりやすくなります。歯磨きを十分にして口腔ケアを怠らないことが大切ですが、どんなに自宅でケアをしていても、歯並びの悪い口の中には、歯石がたまるものです。たまった歯石をそのままにすれば、歯肉炎、やがては歯周病へと進行してしまいます。ここまでくると動物病院で歯石を除去する施術を行う必要がでてきます。
ここで問題となるのが、歯周病が原因で心臓病になる可能性があるという事実です。
歯周病の初期症状は歯周ポケットにたまった歯石によって炎症が起きることから始まります。炎症が起きている歯肉の血管は非常にもろくなっているため、細菌が入りやすくなってしまいます。血管の中に入った細菌は、血管の流れに乗って全身へとばらまかれます。この細菌が心臓にたどりつくと、心不全を起こしてしまうのです。腎臓にたどりつけば腎不全、肝臓にたどりつけば肝不全を起こすこともあります。
もうひとつ、心臓病と歯周病の関連で知っておいてほしいことは、歯石をとる手術に麻酔が必要だということです。麻酔をかけずに犬の歯石をとることは推奨されていません。できたとしても中途半端な施術になり、けがをさせてしまうかもしれません。
しかし、歯周病になった愛犬が心臓病を抱えていたら、麻酔をかけることは非常にリスキーになります。私のセンターは歯科専門ではありませんので明確な回答は避けますが、「僧帽弁閉鎖不全症」の動物の歯石をとる処置はできれば避けたいと思っている動物病院が多いと思います。ましてや小型犬となると、麻酔のリスクは想像以上に高いと思われます。
私のところで手術をされた愛犬の中にも、深刻な歯周病の子をよくみかけます。「僧帽弁閉鎖不全症」の手術が終わると、飼い主が、「これで歯石をとることができます」とおっしゃることもあります。その際には、「全身疾患の原因にもなる歯周病ですから、心臓が順調に回復した暁には、歯科の専門の獣医師に相談をしてみてください」と伝えています。
手術のリミットは何歳まで?
何歳まで手術ができるかと聞かれたら、「希望があれば何歳でもご相談に応じます」
とお答えしています。というのも、私が手術を行った最高齢が15歳だからです。
15歳といえば、一般的な犬の平均寿命と同じ年齢です。その子は真っ白いトイ・プードルでした。飼い主から相談を受けた時、正直私も驚きました。「今のまま投薬治療を続けても、心臓病で亡くなるより先に、寿命がくるかもしれません。手術にはリスクもありますからよく考えないと……」と飼い主にお話をさせていただきました。
すると飼い主はきっぱりこうおっしゃったのです。「もう、この子が肺水腫で苦しむところだけは見たくないのです」と。
以前、肺水腫を起こした時に、見ていられないほどの苦しみようだったそうです。飼い主ご自身も高齢の方でしたので、我が孫をみるような優しく温かい眼差しで愛犬をご覧になるのです。
普段通りくまなく検査をしてみると、年齢の問題以外は手術に耐えられる力はありそうに感じられました。それでも、体力的なリスクは大きいと感じていました。
しかし飼い主の言葉に、私がパワーをいただくことになりました。
「先生、この子が亡くなる時は、肺水腫の苦しみだけは避けたいのです。もし手術がうまくいかなくても後悔はありません。あの苦しみを二度と味わうことなく人生を終わらせるチャンスをください」とおっしゃるのです。
その子は私たちの予想を遙かに超えるがんばりをみせてくれました。きっと、飼い主の手術に対する前向きな気持ちが伝わっていたのでしょう。手術を迎えるまでの日々も、飼い主とたくさん楽しいお話をされていたのだと思います。愛犬と飼い主の本当の意味の信頼関係とはこういうものなのだろうと、感激させられた手術になりました。
のちにいただいたご報告によると、そのトイプードルは17歳まで飼い主とともに充実した毎日を過ごし、幸せそうな表情でお別れをしたそうです。
この手術を経験して以来、私は年齢によって手術のリミットを考えることをやめました。リミットは獣医師が決めることではなかったのです。私たちはどんな状況でもベストを尽くすのみ。手術を「する」か「しない」かは、正確なデータをもとに、飼い主が判断するべきことなのだと、私の中でひとつのルールができあがりました。
ですから、私のセンターでは、手術が可能なケースであっても、「手術をするべきです」とも「お薬で治療しましょう」とも言いません。
お伝えできる限り、手術と投薬についてメリットとデメリットをお話しさせていただいています。
同時に、手術の金額面で飼い主が手術を「する」か「しない」か悩むことは、皆無に等しいということにも気がつきました。
手術を受けている飼い主が、みなさん余裕のある生活をなさっているわけではありません。いろいろ工面して来られる方もいらっしゃいます。
そこにあるのはただ、「この子を助けて、残りの人生を有意義にしてあげたい」というシンプルな思いだけなのです。
最初に金額ありきの方は、きっと手術を選択することはないでしょう。それはそれで飼い主の出した正しい決断なのです。そのうえで、そのあとの愛犬とのかかわりを最大限ハッピーにしてもらえればそれで十分なのです。
海外からも注目を集める「僧帽弁閉鎖不全症」手術
犬の心臓病手術が、当初、欧米で試行錯誤されていたお話を1章でさせていただきました。欧米で始まり未完成だった手術を、日本人獣医師が日本に持ち帰り、そこから私を含め数名の獣医師によって確立させることができたのは嬉しい限りです。その理由の確たるものはわかりませんが、諸外国よりも小さなペットが多い日本において、「僧帽弁閉鎖不全症」の手術が高い精度で可能になったことは、動物を愛する人にとって、とても幸せなことだと実感しています。
ところが、近年、海外でも「僧帽弁閉鎖不全症」の手術の需要が急激に増えているそうです。しかし諸外国では犬猫の心臓手術技術は、いまだ普及するにいたっていません。
そんな流れの中、各国の大きな病院から声をかけていただき、シンガポール、イギリス、アメリカ、フランスでそれぞれ数件の「僧帽弁閉鎖不全症」手術を行ってきました。どの症例も動物たちを元気にすることができ、飼い主には溢れるほどの感謝の言葉をいただきました。
また、手術の後は、各国から集まった研修医に向けてセミナーも開催させていただきました。
海外に向けて私の技術を発信するとともに、海外の動物医療事情を勉強する素晴らしい機会にもなりました。
イギリスの病院は年間2万例を診察する大きな病院でしたが、人間の病院と遜色なく、麻酔医、人工心肺ポンプ技師、愛玩動物看護師、さらにはICUスタッフなど、さまざまな分野の専門スタッフがチームを組む体制が整っていました。信頼関係のあるチームだからこそできる医療には目を見張るものがありました。
日本ではまだまだ動物医療の仕組みが成熟していないことを、改めて感じるきっかけにもなりました。質の高い安全な医療を提供するために、私たちができることはまだまだあるはずです。日本全体の動物医療が今後よりよい方向に伸びていくためにも、我々ができることをコツコツと積み上げていこうと決意することができた旅でもありました。
流れに任せた決断がいい選択をうむ
私は沖縄県に生まれ、幼い頃から生き物に囲まれて生活をしてきました。普通の人が飼うことのできる生き物は、すべて飼ったと言っても過言ではありません。犬、猫はもちろん、は虫類、鳥、魚、豚も飼っていました。生き物がそばにいることが当たり前で、彼らが新しい命を生み出す神々しさ、命を落とす悲しみも、数えきれないほど経験してきました。
人間と同じように、どの生き物に尊い命があり、どれも簡単に失わせてはいけないということを、自分が成長するのと同じ速度で積み上げるように学んできたのだと、今思い返すと感じることができます。
高校3年でバレーボール部を引退し、進路を決めなければいけなかった時に、担任から「獣医師どうだ?」とアドバイスを受けました。
心の奥底には「動物と共に生きていきたい」という思いをずっと持ち続けていましたが、獣医師なんて考えたこともありませんでした。
この話はあまり公にしたことはありませんでした。幼い頃から、「動物のお医者さんになりたい!」と、夢をもって生きてきたわけではないことに、少し後ろめたい気持ちがあったのかもしれません。でも今回、この本を執筆しながら思うところがありました。
それは私の人生は「流れに任せた決断」でここまできたのだということです。獣医学部を受けたきっかけも、大学で腎臓をテーマにした研究をしたのも確固たる意志があったわけではなく、その時々の選択で最終的にそうなってしまった結果でした。
実はその後も同じようなことが続きました。
大学院を卒業後、就職先が定まらないまま、フラフラしている時期がありました。博士号を取得して無職でしたから、どんな仕事でもやります、という気持ちで日々を過ごしていました。その時、本当に偶然、アメリカ留学の話が舞い込んできたのです。それもずっとやりたかった循環器に関する研究室の研究員でした。即答でアメリカに飛びました。
日本では学部、大学院と泌尿器を専門にしていましたから、循環器は新鮮にうつり、無我夢中で勉強しました。手術にも多々参加させてもらい、充実した日々でした。その研究室でいいポジションの話がまとまりかけた時に、またしても転機が訪れました。日本の大学の教員の採用です。
帰国して戻った大学では、また循環器とは関係のない場所に所属することになってしまいました。それでもそこにやるべきことがあるならと、不満はありませんでした。
しかし、少しすると循環器の先生がおひとり退職することになったのです。
「1名分席があいたけど、誰かやる?」との問いかけに、「じゃあ、僕がやりましょう」と引き受けることにしました。流れに任せて進んできましたが、そこからは、循環器の専門医として、自分のすべてを注ぐことのできる仕事に巡り会うことができました。
そんな私の獣医師人生を振り返った時に、人間の選択は必ずしも強い意志がなくてもいいのではないかと気がついたのです。人生の岐路にたった時、こちらに進めば必ず成功するという確証はどこにありません。ただ、その時に感じた「流れで」「何となく」選んだ道で先を読みながら一生懸命働いて成果を残せば、将来大きく広がってくることも十分あり得ると思っています。
「僧帽弁閉鎖不全症」の治療は常に選択を迫られることばかりです。どの薬をどれくらい飲ませるか、組み合わせはどうするか、薬をやめる時期の見極めは?そういった一つひとつの選択については、もちろんデータに裏付けされた理論を基本にしています。だからといって、同じ体重、同じ症状の動物であれば、まったく同じ治療をするかといえばそれは違います。
そこには命があります。生きた動物の心があります。常にその心と向かい合い、飼い主の気持ちに寄り添い、私はその時々にベストな選択をこれからも続けていきたいと思っています。
愛犬が「僧帽弁閉鎖不全症」と診断され、病院はどこにする?投薬?手術?二次診療はどこにしてもらう?と、飼い主も次から次へと選択を迫られるでしょう。確かに最終決断をするのは飼い主でなければいけません。
でも、そこに「絶対的な正解」は存在しません。
飼い主が最終的に選択した道が正解なのだと思います。
「僧帽弁閉鎖不全症」と診断された愛おしい命と、それを見守る飼い主にとって、これからの時が優しく穏やかに、そして幸せに流れることを祈ってやみません。