第1章、愛犬の命を奪う「僧帽弁閉鎖不全症」とは何か
心臓病は不治の病ではない
「心臓病です」
ご自分の愛犬の病状を獣医師からそう告げられた時、飼い主の心はどれほど痛むことでしょう。私の臨床経験でも、一瞬、時が止まったように茫然とされる方、無言のまま涙を流される方、パニックになってしまう方など、そのご様子を拝見するのは何度経験しても切ない気持ちになります。
少し経って落ち着かれると、必ず飼い主が口にするのが「先生、助けてください」という言葉です。
「助からないかもしれない」という不安をもつからこそ「助けてください」と懇願されるわけで、「心臓病」という言葉の響きには、命を脅かす恐ろしいものという印象があるのでしょう。もしかすると心臓移植をしなければ助からない、そんな飛躍した考えをもたれる方もいるのかもしれません。
「心臓病」と聞くと、特別な病気、治らない病気だと絶望的な思いを抱く飼い主が多いようです。確かにペットとして飼われている犬の死因の第2位は「心臓病」だというデータがあります(ペット保険会社調べ)。しかしそこには、治療方法が適切でなかったために残念な結果を招いたケースがかなりの数で含まれています。
「心臓病」は確かに治療の難しい病気です。でも、本書を読み進めていただければ、きっと今よりも治療に前向きになれるはずです。
心臓病の中で発症率ナンバー1の僧帽弁閉鎖不全症
この本のタイトルにもなっている「僧帽弁閉鎖不全症」は、犬の心臓病ではもっとも発症率の高い病気です。すでに愛犬が「心臓病」だと獣医師から告げられている方の中にも、この病名で診断されている方が多くいると思います。「僧帽弁閉鎖不全症」とは、いったいどんな病気なのでしょうか。
まず、心臓の構造からみていきます。
犬の心臓は人間の心臓と同様のつくりをしており、右心房、右心室、左心房、左心室とう4つの部屋で構成されています。右心房と右心室、つまり心臓の右側部分は、全身から流れてきた汚れた血液を肺に送る働きをしています。左心房と左心室、つまり心臓の左側は、きれいな血液を肺から受け取り、全身に送るのです。
心臓がドクンと動くのは、血液を送るために収縮していると考えるとわかりやすいでしょう。この血液の流れは常に一定で、健康なからだであれば、血液が逆に流れることはありません。このことから心臓を含む、血液の流れにかかわる器官を「循環器」と呼びます。循環器には心臓、血管、リンパ、脾臓などが含まれます。
心臓の中の扉が閉じなくなる僧帽弁閉鎖不全症
「僧帽弁閉鎖不全症」は左心房から左心室に血液が流れる時に通過する弁に異常の起こる病気です。弁は2枚で構成された扉のような形状をしているのですが、その形がカトリックの司教がかぶる冠「僧帽」に似ていることから、その名がつきました。玄関扉が家の内側から外に向けてしか開かないように、僧帽弁も左心房から左心室に向かってしか開かないようになっています。
つまり心臓がドクンと収縮し、左心房から左心室に血液が流れる時だけ開き、一度左心室に入った血液は左心房に戻ってくることはできない一方通行の仕組みになっているのです。
ところが、この僧帽弁がもろくなったり、厚くなったりしてしまうと、弁の閉鎖機能が悪くなり、本来の血液の流れとは逆に左心室から左心房に血液が逆流してしまいます。また、僧帽弁を支える筋に異常が起きた時も、同様に弁の開閉に支障をきたします。これらの病態を「僧帽弁閉鎖不全症」と呼びます。
血液が逆流するということは、きれいな血液を全身に送り出す量が減るということを意味します。心臓がドクンと1回収縮した時に流れる血液量が減ってしまうわけです。動物のからだというのは実に賢くできていて、1回の収縮で不足であれば、心臓をもっと動かしてたくさん血液を流そうとします。簡単にいうと、ドクンドクンという心臓の鼓動を今までより速くして、血液を送るポンピングの回数を増やそうとするのです。
心臓が一生懸命働くことによって、全身には今までと同じくらいの量の血液が循環することになります。つまり、心臓が必死に働いているお陰でからだの他の部分には影響が出ないわけです。飼い主の目線でいうと、「症状がみられない」のです。
この自覚症状のない時期にあっても、定期検診を受けると「僧帽弁閉鎖不全症」が発見されるケースがたくさんあります。外見上は咳や呼吸困難などの症状がみられなくても、聴診器で心音を聞くと心雑音が聞こえます。また当然、心拍数の数値が上昇しているはずです。
僧帽弁閉鎖不全症が進行すると肺水腫を起こす
明らかな外見上の症状がないまま「僧帽弁閉鎖不全症」が進行するとどうなるのでしょうか。
まず、血液を送り出すために必死に働いた心臓は疲労こんぱいの状態になります。心臓の力が弱まり、心臓から血液が流れ出ていかないわけですから、血液が心臓にたまり始めます。よく「心臓が大きくなる」という表現を使いますが、送り出せなかった血液の量が増えた分だけ、心臓が血液を含み、膨らんだ状態になることを「心臓が大きくなる」と例えているのです。
心臓にたまった血液は行き場を探して、肺に流れていきます。最初は肺の毛細血管に血液がたまっているのですが、それも限界を超えると、毛細血管から血液中の水分が溢れ出て肺の中にたまり始めます。これが「肺水腫」と呼ばれる状態です。肺の中の組織が水浸しになり、呼吸がうまくできません。この時レントゲン撮影をすると、肺が真っ白に写ります。毛細血管から水が漏れ出す現象が胸で起こると「胸水」、お腹で起こると「腹水」という診断をされます。
心不全を起こすと命に危険が
こうして心臓がからだに必要な血液量を送り出せなくなった状態を「心不全」と呼びます。「心不全」は人間の中年期では死因第2位にのぼるほどで、犬においても命にかかわることの多い状態です。
初期症状は「散歩の途中で座り込む」「寝ている時間が長くなる」といった程度で、飼い主も気づきにくいでしょう。中度になると「散歩に行きたがらない」「食欲が落ちる」「運動後や興奮すると咳をする」などがみられるようになります。さらに進行して重度になると、「ほとんど動こうとしない」「安静時にも咳が出る」「突然パタンと倒れる」「呼吸困難」などが起こるのです。
酸素濃度の低下によって、唇や舌などの粘膜が紫色になるチアノーゼを起こすこともあります。肺水腫や心不全を繰り返すうちに体力が限界を迎えてしまうことが「僧帽弁閉鎖不全症」のいちばん怖いところなのです。
心臓以外の臓器にも影響が出始める
心臓と腎臓の病気は密接な関係をもっています。腎臓は血液中の老廃物を尿にかえる働きをしています。心不全を起こして血液の流れてくる量が減ると、腎臓は尿がつくれないため脳に危険信号を出します。すると「水分をたくさんとって血液をつくれ!」と、脳が命令を出すため、たくさん水を飲むようになります。しかし水を飲んでも血液は心不全のために思うように流れません。そのまま腎臓で尿をつくれない状態が続くと、毒素がからだにたまり「急性腎不全」を起こして命を落とすことがあるのです。
もちろん適切な治療を受ければ「腎不全」は回避することができます。
人気の小型犬が僧帽弁閉鎖不全症の好発犬種
では日本において、犬が心臓病に罹患する率はどれくらいなのでしょうか。2014年のペット保険会社のデータによると心臓病を含む循環器の治療で保険請求があったのは、全疾患の5%程度だったそうです。しかし、循環器の病気の特徴として、6歳を超えると急激に罹患する率が上がるという事実があります。5歳では全疾患の1〜2%程度であったものが、10歳を超えると10%以上、12歳では20%近くに跳ね上がります。つまり12歳の犬が動物病院にかかった場合、5匹に1匹は心臓病だといえるのです。
特に日本で人気の小型犬は、循環器の病気にかかりやすい傾向にあります。12歳での罹患率がシー・ズーやポメラニアンで30%以上、チワワで40%、マルチーズで50%を超え、キャバリア・キング・チャールズ・スパニエルに至っては60%を超えます(JASMINEどうぶつ循環器病センター調べ)。飼い主が病院に連れてきたタイミングが12歳以上という意味なので、心臓病の発症そのものは、さらに以前からだったと考えるのが適切でしょう。
私の病院は二次診療施設ですので、かかりつけの獣医師さんで「心臓病」と診断を受けてから来院される方がほとんどです。犬種ではチワワ、ポメラニアン、マルチーズが目立ちます。最近は犬種としての人気が上がっているためか、トイ・プードルも増えてきています。
その他の心臓病
もちろん「僧帽弁閉鎖不全症」だけが心臓病ではありません。他にも注意すべき心臓病がいくつかありますので、それぞれ簡単に解説をしておきましょう。
◎肺動脈狭窄症
【どのような病気か】
全身を巡って老廃物を含んで心臓に戻ってきた血液は、まず右心房に蓄えられます。次に心臓の収縮に合わせて、三尖弁という弁を通過して右心室へ流れます。さらに右心室から肺へ血液は流れるわけですが、ここで血液が通る血管が肺動脈です。この肺動脈の一部が生まれつき狭くなっている状態が「肺動脈狭窄症」です。肺動脈の入り口には、僧帽弁と同じように逆流を防ぐ肺動脈弁があります。この肺動脈弁がうまく働かず、血液が正常に流れないものは「肺動脈弁狭窄症」と呼ばれます。流れにくい血液を右心室ががんばって肺へ送り出そうとするため、右心室はオーバーワークになり、筋肉が肥大していきます。狭くなっている肺動脈にもかかわらず、正常な量の血液が流れるわけですから、スピード違反のような速さで血液が通過することになり、肺動脈にも負担がかかります。
【症状】
生まれつきの病気ですが、狭窄の程度によっては症状があらわれないまま寿命まで生きられるケースもあります。しかし、たいていは心臓にかかるさまざまな負担が原因となって、心不全や不整脈を起こします。具体的な症状としては「僧帽弁閉鎖不全症」と同じように「疲れやすい」「動きたがらない」「食欲不振」「突然パタンと倒れる」などがみられます。
【治療方法】
軽度であれば内科的に投薬をしながら経過観察をします。薬は心筋が厚くなるのを防ぐものと、不整脈を抑える薬を使用します。重度になると投薬だけでは心臓の肥大を抑えることが難しくなるため、外科的手術を選択することになります。バルーンを使って弁を広げる方法と、人工心肺を使って肺動脈そのものを広げる方法があります。広げた肺動脈に心臓弁(バイオバルブ)と呼ばれる人工の弁を入れる肺動脈弁置換術も、現在臨床研究が進んでいます。心臓の肥大が大きいケースでは、心臓を止めて手術を行うことはリスクが高くなります。そのため心臓が動いた状態で手術を行うことになり、より高い技術が求められます。
◎動脈管開存症
【どのような病気か】
犬の先天性心血管奇形でもっとも多くみられる病気です。動脈管とは子犬が母犬のお腹の中にいる間、肺動脈から大動脈への抜け道になっていた血管のことをいいます。生後、肺で呼吸をし始めるとこの抜け道は必要なくなり、自然に閉じるのが普通です。この動脈管が閉じることなく残っているものを動脈管開存症と呼びます。全身に流れるべき血液の一部が大動脈から肺動脈へ流れるため、肺や心臓に負担がかかります。動脈管が広くあいているほど流れる血液の量が多くなり、症状が重くなります。先天的にかかりやすい犬種には、シェルティー(正式名称:シェットランド・シープドッグ)、ウェルシュ・コーギー・ペンブローク、トイ・プードル、ヨークシャー・テリアなどがあります。
【症状】
動脈管が太くない場合は、症状も軽度で、ある程度の年齢になるまで気づかれずに過ごすこともあります。しかし重度の場合には幼いうちに「咳」や「呼吸困難」の他に「食欲低下」「動きたがらない」などがみられ、場合によっては成長が妨げられ大きくなれないこともあります。
【治療方法】
内科的治療は対症療法になります。症状が出てしまっている場合は、手術せずにいると心拡大や肺高血圧が悪化し、多くは心不全となってしまいます。早い段階で動脈管を縛って閉鎖する手術が必要とされます。
◎心筋症
【どのような病気か】
心臓の筋肉、心筋に異常が起き、心臓の機能に問題が起きた状態をいいます。筋肉が厚くなる肥大型心筋症は猫に多くみられるもので、犬にはあまり発症しません。反対に筋肉が薄くなる拡張型心筋症は、大型犬に多くみられます。左心房と左心室の壁が薄くなり、心臓がドクンドクンと収縮する力が低下してしまいます。そのため十分な量の血液を全身に送ることができず、血流が足りない状態になります。
【症状】
拡張型心筋症では、初期には症状のみられないこともあります。進行すると「食欲不振」「疲れやすい」「咳」などがみられるようになり、さらに重症化すると「呼吸困難」や「失神」を起こし、命にかかわることもあります。
【治療方法】
拡張型心筋症は人間の場合、欧米では心臓移植がポピュラーな治療法になっています。日本でも難病に指定されており、心臓移植が行われるケースもあります。一時期は心臓の大きさを適切に修正するバチスタ手術が流行したこともありますが、再発の危険性が高く現在では行われていません。犬の場合、外科的治療は一般的ではなく、投薬によって心臓の働きを助け、症状を緩和するのが治療の限界になっています。
◎心室中隔欠損症
【どのような病気か】
左心室と右心室を隔てる壁に、生まれつき穴があいている状態です。そのため本来の流れとは逆に、左心室から右心室に血液が流れ込み右心室に負担がかかります。症状が悪化すると、肺への負担も大きくなっていきます。穴が小さい場合は、自然に閉じることもあります。
【症状】
穴が小さい場合は、ほとんど症状の出ないケースもあります。ただし、聴診器で聴くと心雑音が聞こえます。重いケースでは「咳」「動きたがらない」「食欲不振」「呼吸困難」などがみられます。「発育不良」を起こすこともあります。
【治療方法】
穴が小さく症状がみられない場合は、心臓への負担を定期検診でチェックしながら経過観察をします。薬では穴を塞ぐことができないため、心臓が大きくなる症状がみられ始めたら手術を選択することが賢明です。体外循環が適応できる大きさになったら手術は可能です。専用のパッチをあいた穴に縫合します。このパッチはゴアテックス素材のため、一生溶けずに穴を塞いでくれます。
◎不整脈
【どのような病気か】
不整脈そのものは病気ではなく、ひとつの症状になります。標準的な成犬の1分間の心拍数は小型犬で60〜80回、大型犬で40〜50回が正常です。この基準値に対して、安静状態の1分間の心拍数が一定しない場合を不整脈と呼びます。興奮した時や、ドキドキするような状況におかれた時に、脈のリズムが一定でなくなるのは洞性不整脈と呼ばれ、心配する必要はありません。ただし素人判断は危険なので、リズムの乱れが気になる時は、必ず受診するようにしてください。明らかな不整脈が起きている場合、重篤な病気が隠れていることが多々あるため、定期検診で不整脈を指摘されたら細かい検査をしてもらうことが必要です。
【症状】
「咳」「呼吸困難」「尿量の変化」などがみられます。いずれにしても不整脈を起こしている根本の病気を探ることが大切です。
【治療方法】
不整脈そのものを抑えるためには、交感神経が興奮しないように自律神経に働きかける交感神経遮断薬と、細胞が興奮する時に動くチャンネルをコントロールする薬を使います。もちろん根本原因をつきとめて、そちらを治療することを同時に行う必要もあります。
◎フィラリア症
【どのような病気か】
蚊の媒介によって、寄生虫の一種「犬糸状虫(フィラリア)」が犬に寄生し、肺動脈や右心室に住み着く病気です。住み着いたフィラリアが幼虫を産み、その幼虫が全身の血管に移動します。その血管を別の蚊が刺し血液を吸い取った時に、フィラリアの幼虫は蚊の体内に吸い取られます。そして蚊の体内で脱皮を繰り返し成長します。蚊が次の動物を刺した時に、幼虫が動物の体内に移動し、成長しながら血管に入り込む、という方法で感染が広がっていきます。現在、日本での感染は少なくなっていますが、確実に予防を行うことが大切です。
【症状】
血液の循環が妨げられるため、さまざまな症状が起こります。「咳」「運動をしなくなる」「血を吐く」などのわかりやすい症状以外にも「むくみ」「腹水」「肝臓肥大」など、ご家族が見落としがちな症状もみられます。寄生数が多い場合は寄生虫が血管を塞いでしまい、急激に症状が悪化することもあるので注意が必要です。
【治療方法】
成虫の駆除はかつてヒ素剤などの投与で行っていましたが、現在では予防薬の長期連続投与で行います。ただし、多数のフィラリアが寄生している場合は手術で成虫を取り除くこともあります。もっとも大切なことは予防です。フィラリアに寄生されないよう予防することは、犬や猫を飼う方の義務だといっても過言ではありません。蚊が活動を始める時期から、蚊が周囲からいなくなって1カ月後まで、予防薬を飲むことが一般的な予防法です。寄生虫を防ぐ首輪や皮膚にたらす滴下薬もあります。獣医師とよく相談して確実に予防するようにしましょう。